見沼たんぼの歴史
縄文時代は海の底
いまより海水面が上昇していた縄文時代には、いわゆる縄文海進により東京湾が埼玉県の奥深くにまで入ってきていました。そのため低地だったいまの見沼たんぼは海の底だったのです。その証拠に、見沼たんぼの周辺の台地では数多くの貝塚が発見されており、この時代に海岸の近くで生活していた多くの集落があったことが裏付けられています。
淡水の湿地帯の時代
その後、海水面は後退し、低地だった見沼たんぼは淡水の湿地帯になります。湿地帯ではいわゆるマコモやスクモなどの水草が繁殖し、枯れた草はそのまま堆積していきました。いまでも見沼たんぼの土地を1メートルも掘れば、その時代の水草の堆積層が未分解のまま掘り出されます。この層は地元では「マコモ層」「スクモ層」と呼ばれています。
江戸時代に新田開発
江戸時代になると、米の生産量を確保するため、新田開発がおこなわれます。上水路として見沼代用水の東縁・西縁が利根川からひかれ、真ん中には排水路として芝川が整備されます。農地として現在の見沼たんぼの基礎が整えられた時代といえるかもしれません。
見沼三原則による保全
1958年の狩野川台風により見沼たんぼの治水機能がみとめられると、65年には農地の転用を防止し、治水機能を保持するための規制「見沼田圃農地転用方針(見沼三原則)」が制定された。この規制により見沼たんぼは開発から逃れ、現在まで首都圏最大級の農地帯として保存されることとなった。(見沼三原則は、95年には「見沼田圃の保全・創造・活用の基本方針」へと変わり、緑地として保護されるのであれば公園等への転用が可能となった)